釣り堀というものの存在を知ったのは、大学を出て東京に出てきてからだ。いっぱい放たれているから必ず釣れる魚を釣って何がおもしろいのだろうと不思議でならなかった。僕が子供の頃はよく沼や堀へ釣りに出かけた。全く釣れないこともあった。そのたびに自然を相手に子供の全知全能力を傾ける必要があった。
釣り堀では、間違いなく魚がいることは保証されているのだから、釣れないということはないだろう。必ず釣れるわけだから、いろいろ考えを巡らす必要などないだろう。「こんなことをして面白いですか」と聞いてみたくなる。最近になってさらに驚いた。釣り堀のある公園があちこちにある。そこの注意書きなどを見ると、釣った魚は池もしくは堀に返さなければならないという決まりになっているようだ。こうなると、とても僕には釣り堀の存在理由が理解できない。そこに人間の退行現象をみるような気もする。
しかし、これが都会というものかもしれないとも思う。そうすると釣り堀があるところが都会、ないところは田舎と区別することができそうだ。東京にはあちこちに釣り堀があるから都会の中でも大都会、僕が生まれ育ったところでは釣り堀などというものはなかったから田舎というとができるだろう。
平成の大合併とかで、全国に聞いたこともない「市」が増えた。しかし、いくら市を名乗っても、都会にはなれない。釣り堀を作らない限り所詮田舎でしかない、ということになるわけである。