昨日の「存在証明」の内容は、一面的なものの見方であったことに気づいた。「なりすまし」という手法があることをすっかり忘れていた。多分、僕は根っからの善人なので、そのような悪の手法には考えが及ばなかったのだ。
その手法とは、すでに死んでしまっていて存在しない人があたかも存在するように思わせる手口だ。殺してしまった女性の携帯電話を使ってその女性の友人にメールを送り、あたかも殺してしまった女性が生きているように思わせた事件があったような記憶がある。不在を隠すために存在証明を逆手に取ることができるわけだ。
ただし、このようななりすましは文字だけのメールの世界では通用しても、フェイスブックやブログなどの世界では難しそうな感じがする。いや、電話で息子だと名乗って相手を騙すなりすましもいるぐらいだから、ネットの世界でのなりすましなどはこのような輩から見れば、たやすいことかもしれない。
ひょっとしたら、われわれが毎日友人・知人の存在証明を見たように思っているひとつひとつのことが、すべてなりすましによるものかもしれない。このブログだって、左の欄にあるバローロ村の写真の男が書いているのではなく、別の人間がこの写真の男になりすまして書いているのかもしれないではないか。この写真の男がまだ存在していると思わせるために。